権谷達哉 SEEK THE ETERNITY
自伝
「なんで音楽なんか始めたかって」
「そりゃ、女の子にもてるためですよ。男にかっこいいって思われるためですよ。」
そんな言葉で照れ隠しをしていた自分が、本当に世界を股にかけたロックスターを志すとは誰も思わなかっただろう。
やるからには、カッコ悪いことはやりたくない。
フォークや演歌なんて歳をとってからでいいだろう。
やるからには、ロック、極めるのはハードロック、メタルだろう。
国内では見つからないレべルのミュージシャンが海外にはゴロゴロいる。
彼らと組んで、本当に頂点を目指そう、そう誓ったのは10年も前のことだ。
それから疾走の10年が始まる。
正直この10年、音楽以外に何もしていなかったように思う。
僕は学生時代から英語が好きだった。
これが英文作詞家としてのベースになっている。
クオリティの高い音楽はエモーショナルな歌詞で構成されなければいけない。
そこの意識が希薄または未熟だと台無しだ。
ある意味において、うたの歌詞というものには、ミュージシャンの生き様や価値観が反映される。
言葉っていうものは、そういうもの恐ろしさがある。
若いタレントが書いたとかいうことにしておけば誤魔化されるというものでもない。
十代なら十代、二十代なら二十代の尊い感性というものがある。
それを50や60の親父が代弁というのは、本質から遠のいているのはいうまでもない、
音楽とか文学ほど、人物が等身大で伺えるものはないだろう。それが面白くもあり恐ろしい。
そういう感覚が僕を随分長い時間、文学的な香りのするものから遠ざけていた。
本も読まない、音楽も聴かない、僕が今作詞をやっている、本当に周囲から見れば、摩訶不思議だろう。
それでも、そんな自分だからこそ面白い作品が作れるのではないかという根拠のない自信があったことが今日まで自分の創作を支えている。
随分たくさんの作品を手掛けた。音源化したものだけでやがて200曲以上に及ぶのではないか。
幸い、コンポーザーにもボーカリストにも恵まれ、優良な楽曲が数多く生まれた。
ドイツとイギリスに優秀なミュージシャンがいて、複数回コラボで楽曲を作る。
英国在住のプロデューサー・スチュアートは華々しいキャリアを持っている。
伝説的なロックバンドやシンガーソングライターの、スタジオエンジニアとして、歴史にその名を刻んでいる。
彼との出会いが、僕のミュージシャンとしてのキャリア・ステータスを飛躍的に高めてくれた。
僕が書いた詞に、スチュアートのつけた曲・ボーカルが載って、楽曲が仕上がるのだ。
そのキャリアに違わぬ、クオリティの高い仕事に僕は心から満足した。
日本から音楽の本場イギリスにアクセスして、その巨匠と音源を作るということがトピックとして、メディアに大きく取り上げられる。
新聞やテレビはもちろん、地方FMに至っては、北は北海道・南は沖縄まで広く流れた。
全国のラジオのディレクターの耳に止まり、電波に流れたということは、とてもありがたかったし、評価されていると位置づけられた気がした。
今、僕は反戦音楽を手掛けている。
ロックを始めた正直な理由として、こういう社会的に皆が胸に抱えている不満や憤りを代弁するというある種の責任感があったことを、今ここに告白する。
世界は危機に瀕している。
この良くない流れを変えるのは、文化の力によるしかないと自分は感じている。
そのための表現として自分は、音楽を選び作詞を担った。
生きていることのリアルとして、正しさを主張することが無力ながらも重要なことであると信じる。
悪いけど、この目的のために、世界中のアーチストをある意味利用している。
だが、協力してくれていると思いたい、信じたい。
もっと正直に言うと、僕は音楽というものの影響力は凄いと思いながらも、心から愛しきれないところがある。
音楽の持つ刹那性というか流行性は一過のもので、永続性というものをなかなか見出しにくいと思うのだ。
そういった意味において、スタンダードポップ・スタンダードロックというものを意識してメッセージを送り続けていたけれど、商業主義の音楽に、こういう説教臭さは迎合されていない感がある。
影響力を持たない音楽が価値を持たないとするならば、崇高な理想もうまく発信しなければその意味を発揮できないという結論に達する。
そういった意味において、創作とメディアとの関連性というものが、一定のレベルを保った上で機能しないと用を為さない。
商業音楽が機能しないような啓蒙活動において、音楽はどのように普及し得るのだろうかと懐疑的になる。
先日誕生日を迎えて、50になった。
これからの人生の方向性を考えた時に、頭が真っ白になった。
音楽をやめるという結論には達しなかったが、4年間続けたコミュニティFMのパーソナリティをやめる決意をした。
発信者としての自分と、メディアの一部として機能するパーソナリティとしての自分のバランスがそろそろ限界かなと思った。
ここから先何を探していくのだろう。
社会的とか社会性というのがキーワードになっていくと思う。
今、ここに在ること、向かってきたこと、向かっていくことを一本の線というか道のように考えるとしたら、それが自然だろう。
24歳で精神病を患って、もう25年たった。
20年近く、闘病と反骨の一心で生きてきた。
凄く卑屈で憂鬱で惨めな気持ちで生きてきた。
正気に戻ったのは最近だ。
正直誰に救われたという気持ちも持てないでいる。
社会って冷たいものだと思いながらも、それでもすがらないことには生きていけないリアルがある。
そのことがなおさら自分を惨めにする。
役場勤めなどを経験し、世の中の仕組みを知ったことが、尚更そういう気持ちにさせる。
人間というものは、自分のテリトリーというか生活領域の中で目一杯あがいて生きるものだ。
その守備範囲みたいなものを超えていこうとすると、破綻する。
僕は音楽を通してその守備範囲を無限大に広げようとあがいていた。
障害者年金という国の救済制度をフル活用し、さらに借金までして自分の限界以上のことを成し遂げようとした。
ある意味破綻のような現状ではあるが、目一杯日々を生きてきた、今も生きている気がする。
誰にでもできることじゃないと言われる。
最近は、一日何もしないで凌ぐことに全力を注いでいる。
電話で友人と話すことが社会との唯一の繋がりだったりする。
この心細さを救ってくれる友人には心から感謝している。
誰とも繋がらない深夜に、うたを作ったりする。
でもたいていは没にする。
そんな気持ちの時には、寂しいうたしかできないから。
多分、明日もこんな日を過ごす。